「人間は平等か?」
「または平等であるべきか?」
「なぜ人々は平等を唱えるようになったのか?」
ニーチェは代表作「ツァラトゥストラかく語りき」にて平等について以下のように語っている。
「ツァラトゥストラかく語りき」毒ぐもについて
よく来た、毒蜘蛛よ。お前の背中には、黒ぐろと三角の紋章がついている。お前の魂のなかにいついているものも、わたしは知っている。
お前の魂のなかにあるのは、復讐だ。お前が噛めば、そこに黒いかさぶたができる。お前の毒は復讐心を注ぎ込み、人々の魂をもの狂いにして踊らせる。
はじめに毒蜘蛛が登場する。毒蜘蛛は人々に復讐心を注ぎ込み、人々を狂わせるという。
君たちも人々の魂を狂わせて踊らせるではないか、平等を説く者たちよ。わたしにとって諸君はこの毒蜘蛛であり、復讐心を隠し持っている。
ここでニーチェは平等を説く人たちのことを毒蜘蛛と呼んでいることがわかる。平等を説く人たちには復讐心があるという。
諸君、平等を説く者たちよ。力を持てぬ暴君の狂気が、君たちのなかから叫んでいる。秘められた暴君の情欲が、徳という言葉にくるまれている。
力を持っていないということが狂気となって、持つ者への復讐心を駆り立て、平等を叫ばせている。そして平等を叫ぶことがあたかも徳であるように錯覚している。
彼らが害を与えようとしているのは、いま現に権力を持っている者たちだ。権力者のあいだでは、なお死の説教が幅を利かせているから。
平等を叫ぶ人たちが、実際に権力を持っている人たちに害を与えようとしている。
この平等を説く者たちと、わたしは混同され取り違えられたくはない。なぜなら正義はわたしにこう語るからだ。「人間は平等ではない。」
ニーチェは力強くこう宣言する。「人間は平等ではない。」 平等を説く人たちと一緒にされたくはない。
そしてまた、人間は平等になるべきでもないのだ。そう言わぬとすれば、わたしの超人への愛は一体どうなる。
そして、反対に平等になるべきでないと主張する。
人間はたがいに敵対しつつ、像や幻影を発明していかねばならない。その像や幻影をたずさえて、よりはげしく対立しあい、最高の戦いをたたかわねばならない。
人間は自分の価値観を自分で作り出して、その価値観をもとに、それぞれが激しく対立しあい、高め合わなければならない。
善悪、貧富、貴賎、そして他のあらゆる価値の名称、それは武器でなくてはならない。そして生がたえず、みずからを克服していかねばならなことを示す、旗印でなくてはならない。
むしろ善悪や貧富などの不平等は自分自身の価値観を作り出すのに必要な要素である。
我が友よ。われわれもまた、このように悠然と、みごとに、敵対しよう。われらも神々しく対抗して向上しようではないか。
それぞれの人間の不平等を元に作られた価値観を戦わせて、より強靭な価値観を一緒に作り上げよう。
まとめ
人間はもともと不平等なものだ。それは変えられない。だから平等を叫ぶ必要はないし、平等にすべきだとも思わない。
平等を叫ぶ人がいるとすれば、持てる人への嫉妬からだ。そのような嫉妬や復讐心からは何も生まれない。ただ持てる者の足を引っ張ろうとするだけだ。
不平等を受け入れ、むしろそれも自分の価値観を形作る一つの要素と捉えてみてはどうか。そして、それぞれの人が持つ価値観同士を真剣に戦わせて、より高みへとお互いに向上していこうではないか。