「教養を持つことは大事だろうか?」
「教養を持っている人は偉いのだろうか?」
ニーチェは代表作「ツァラトゥストラかく語りき」にて以下のように語っている。
「ツァラトゥストラかく語りき」教養の国について
現代の者たちよ。顔にも四肢にも五十もの染みをつけて、君たちはそこに座っていた。私は驚愕した。諸君のまわりには五十の鏡が置かれていて、君たちの色彩のたわむれに媚び、それを真似ていた。
ここでいう染みは教養のことを言っている。鏡も同様。現在人は教養を塗りたくって、鏡を見ながら他の人はどうか、自分はどうか見張っている。
現代の者たちよ。まさに、君たちの顔こそが、何よりまさる仮面だ。誰にできるというのか、諸君を見分けることが。
そのように他から与えられた教養で固められた仮面を身につけた私たちのことを誰が見分けることができるというのか。みんな同じに見える。
過去に生まれた記号を身体いちめんに書きつけ、さらにその上に新たな記号を上書きしている。こうして、記号を読み解く者の誰もが読めぬほどに、諸君はみずからを隠した。
過去に作られた教養、新しくできた教養をせっせと身につけ、もともとの自分がどのような意志を持って、どのような考え方を持っているのかもわからないほどになってしまった。
君たちからヴェールとマントを、そして色彩と所作を取り去って後に残るものといえば、あの鳥おどしの案山子んようなものにすぎない。
そんな君たちから、教養という名のヴェールとマントを取り去ると、残るのは中身のない案山子のようなものだけだ。
私の肺腑にこたえる苦しみは、諸君が裸でいようと着衣でいようと、我慢ならないということだ。君たち現代人よ。
つまりニーチェにとって、教養で塗り固められた現代人も気に入らないし、かといって教養を取り外して、中身の何もない現代人を見るのも気に入らない。
つまり君たちはこういうのだ。「僕たちはまったく現実的だ。どんな信仰や迷信にもとらわれない。」そう言って胸を張る。だが、あいにくその胸がない。
そうだ。どうしてお前たちに信じることができようか。雑然と塗りたくられたものたちよ。かつて信じられたこと一切の、写し絵にすぎないお前たちに。
君たちは現実的で、どんな信仰や迷信にもとらわれないというが、ただ信じられないだけだ。
昔信じられていたことを、学んで身につけた気になった写し絵のような者たちに信じるということができるはずがない。
ありとあらゆる時代が、君たちの頭の中で、たがいに矛盾したことを喋りちらしている。しかも、どんな時代の夢も饒舌も、諸君が目を覚ましているときより、まだ現実性を持っている。
教養という名で身につけた様々な時代の様々な思想が、頭の中にあって、それぞれ矛盾したことを主張しあっているだろう。
お前たちは産むことができない。だから何も信じていない。だが、創造せざるを得ない者は、かならず予知夢と星の兆しをみていた。そして信仰の力を信じていた。
君たちは何も作り出すことができない。作り出したことがないから、何も信じることができない。だが、何かを新しく作り出す人は必ず、何かの兆しを見つけ、信じることを忘れなかった。
お前たちは半ば開いた門だ。そのそばで墓掘り人が待っている。そしてお前たちの現実というのはこうだ。「一切は滅びるに値する。」
そして現代人は、全てのものは何の意味もない、滅びるべきだと考えるようになる。
今もなお愛するのは、わたしの子どもの国だけだ。まだ発見されず、海の果てにある。わたしはみずからの帆に命じる、この国を探せと。なお探せと。
わたしが見たいのは子どもの国だ。子どもの国では、みな純粋に過去の常識や価値観に縛られず、自分で価値観を生み出して生きている。
そのような国をニーチェは見つけたいという。
まとめ
現代人は教養を何よりも大切なものと考え、ある意味ではそれに縛られすぎている。
教養をたくさん身につけているからといって偉いかというと全くそんなことはなく、むしろ、自分で価値観を生み出すことのできない、中身スカスカの人間になってしまう。
教養に縛られるのを止め、自分の価値観を作り上げられるような「子ども」のような人間をニーチェは見たいと言う。