エピクロス哲学

エピクロスの本「教説と手紙」を簡単&詳しく解説!名言も紹介!

エピクロスは紀元前342-271を生きたギリシャの哲学者。

エピクロスはエピクロス派の始祖であり、快楽主義者として知られています。

快楽主義とは何とも魅惑的な言葉ですが、私たちが思い描くような「快楽にまみれて過ごす」ということを目的とするような考え方ではありません

むしろ質素に生活することを推奨する考え方です。

実は私は最初は快楽主義という魅惑的な言葉に誘惑されてエピクロスに興味を持ちました。

ただその哲学を知っていくうちに、エピクロスの言う快楽主義に惹かれていったという経験があります。

今回はそんなエピクロスの現存するほとんどの全著書を収録した「教説と手紙(岩波文庫)」をできるだけ簡単にでも核となる部分は伝わるように紹介します。

「教説と手紙」の内容

「教説と手紙」では次の2点について書かれています。

  1. 自然学(世界はどのようにできているかなど)
  2. 倫理学(どのように生きていくべきかなど)

それぞれについて詳しく紹介します。

エピクロスの自然学

エピクロスはこの世界は物体と空間からできているといいます。

そして物体はどんどんと細かくしていくと、それ以上は分解できない原子にたどり着きます。

エピクロスは原子には様々な形があり、それぞれの原子が組み合わさってこの世界にある全てのものが作られていると考えました。

どのように物事を判断すべきか?

先ほど、エピクロスはこの世界は物体と空間からできていると言いましたが、なぜそのように判断できるのでしょう?

世界が物体と空間からできているといえる根拠は何なのでしょう?

エピクロスは物事の真理を理解する時には「感覚」に従うべきだと言っています。

つまり実際に見たり聞いたり感じたりするということです。

たとえばテーブルの上にりんごがあるとします。

このりんごを私たちは実際に目で見て、そこにあると感じているので、そのりんごは実際に存在していると考えられるということです。

エピクロスは物体からは常に細かい粒のようなものが放出されていて、その細かい粒が目に入ることで、その物体が見えると考えていました。

では見えないものに関してはどうすればいいでしょうか?

見えないものでも間違いじゃないと感覚で感じるなら、あると信じてもいいとエピクロスは言います。

たしかに私たちは実際に自分の目で見ていなくても、あると感じることがあります。

たとえば神はいるのかという問題。

たしかに目では見えないけれど、神のような存在がいるのではないかと思うことはあります。

少なくともいないという確証(感覚)もない。

じゃあ神はいるだろうと考えてもよいという考え方です。

ちなみにエピクロスは神は存在すると考えていました。

なぜなら神がいると感じるから。

ではなぜ神がいると感じるのか?

エピクロスはそのような目に見えない概念のようなものからも細かな粒が放出されていると考えました。

ただその粒はあまりに細かいので、感覚器(目とか耳とか)では捉えられず、直接精神に入っていくと考えていました。

その細かな粒が精神に入ることで、私たちは実際に目で見えないものでも、存在すると感じることがあるとエピクロスは言います。

魂は存在するのか?

エピクロスは魂はあると言います。しかも、魂は物体であると。

魂はとても細かい粒の集まりのようなもので、体全体に分散している。

例えるなら熱風のようなものだ。

魂はある意味では熱、ある意味では風であると言います。

また、エピクロスは人は魂を持っているからこそ感覚を持つとも考えます。

言い換えると魂がなかったら人は何も感じることはないということです。

そしてその感覚を感じる為の道具(条件)が身体だと。

そのため、死んで魂が無くなったら身体は感覚を持たないと考えました。

自然現象との向き合い方

天界(天文学)や気象現象について理解を深める目的は心の平安を得るため。

天界・気象現象については感覚だけでは一つの確定した答えが見つかりません

この答えは合ってそう、でもこの答えも合ってそうといくつか感覚的に合っていそうな答えが見つかることがあります。

全て合っていそうだと思えるなら、一つに絞らないで「ある程度合っているからOK」と考える方が心の平安を得られるとエピクロスは言います。

むしろ合っていそうと思っている他の答えを許さず、答えを一つに絞るのはおかしい。

実際に観察できるものなら確実な答えを見つけられるけれど、天界・気象現象のことは観察できないので、合っていそうな答えがいくつか見つかるのはしょうがないとエピクロスは説きます。

たとえば「なぜ稲妻は雷鳴よりも早く進むのか?」という問いについて。

エピクロスはその原因の可能性を2つあげています。

  1. 稲妻(光)の方が先に雲の中から出てきて、その後に音(雷鳴)が出てくるから
  2. 稲妻(光)の方が音(雷鳴)より早いから

理科の授業で光の方が音より早いということを習っている私たちにとっては、当たり前に2だろうと思うかもしれませんが、この当時はそれを観測する方法がありませんでした。

そのため、1と2のどちらが正しいのかエピクロスには判断することができませんでした。

観測できないことをどちらだろうと悩み続けるよりも、感覚的には間違っていない2つの可能性を、「まあ、どっちかが合っているだろう。」というスタンスで捉える方が心の平安が保てるとエピクロスは考えました。

エピクロスの倫理学

倫理学のパートでは、では実際に明日からどのように生きていくべきか、死とはどのように向き合っていけばよいのかということが書かれています。

生きる目的とは?

エピクロスによると生きる目的は身体の健康と心の平安

つまり、苦しんだり恐怖を感じないようにすることが人生の目的です。

反対に言えば、快楽(心地よいと感じるもの)を追求するのが人生の目的とも言えます。

エピクロスも本文中(教説と手紙 p106)でこのように言っています↓

もしわたしが味覚の快を遠ざけ、性愛の快と遠ざけ、聴覚の快を遠ざけ、さらにまた形姿によって資格に起こる快なる感動をも遠ざけるならば、何を善いものと考えてよいか、このわたしにはわからない。

魂は快楽がない欠乏状態の時に苦悩や恐怖を感じます。

反対に満たされている時は何も感じません。(例:病気になって初めて健康の素晴らしさを感じる)

快楽とは?

快楽は生まれながらの善です。

快楽は全ての人生の選択の根拠となり、すべての善悪を判断する根拠となります

では、何でもかんでも快楽を優先すればよいのでしょうか?

エピクロスは快楽を優先すべきではない場合もあると言います。

それが次の2つの場合。

  1. その快楽を選ぶことで後々もっと大きな嫌なことが訪れる場合
  2. 嫌なことを耐えることで後々にもっと大きな快楽が達成できる場合

たとえば暴飲暴食を繰り返すことは、その時には快楽ですが、その後に暴飲暴食が原因で病気になる場合などが1の例になります。

そのため、あることをすることで快楽と苦しみどちらが大きいか判断することが一番大切だとエピクロスは言います。

快楽の量(大きさ)には限りがある

快楽の量(大きさ)には限りがあります。

快楽の量の限度は苦しみが取り除かれたときに最大になります

一度この限度に達すると快楽はそれ以上大きくなることはなく、快楽の質が多様化するだけであるとエピクロスは言います。

食事を例にすると、質素な食事から得られる快楽と贅沢な食事から得られる快楽は量的には同じと考えます。

なぜなら、どちらも空腹を満たす(空腹という苦しみを取り除く)という点では同じだから。

たしかに今にも空腹で死にそうな人からしたら、ただの食パンでも超高級ステーキでもどちらもめちゃくちゃ美味しく感じるでしょう。

死について

エピクロスは「死は怖いものではない。死とは感覚が無くなる、ただそれだけのことだ。」と考えました。

実は死は私たちにとっては何でもありません。

なぜなら、私たちが生きている時には死は存在しないし、実際に死が訪れた時にはもう私たちは存在していないからです。

私たちは生きていながら死んでいるということはできません。

つまり死は生きている人にも死んでいる人にも関わりがありません。

将来いつか死ぬかもと未来を怯えながら過ごすのではなく、今この瞬間あるものに集中して生きるべきだとエピクロスは言います。

人生が長いから良いかというと必ずしもそういう訳ではありません。

食事をする時に量よりも質を選ぶように、人生も長さだけではなく、質を楽しむのがよいのではないでしょうか?

エピクロスの名言

ここではエピクロスの名言を紹介します。

見たり交際したり同棲したりすることを遠ざければ恋の情熱は解消される。(教説と手紙 p90)

全生涯の祝福を得るために知恵が手に入れるものどものうち、友情の所有こそが、わけても最大のものである。(教説と手紙 p82)

われわれの生まれたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。ー中略ー ところが、君は、明日の主人ですらないのに、喜ばしいことを後回しにしている。人生は延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでいくのに。(教説と手紙 p89)

まとめ

以上、エピクロスの「教説と手紙」を紹介しました。

エピクロスは友情をとても大切に考えていて、人情に厚い人気者だったと言われています。

そんなエピクロスが死ぬ数日前に友人に書いた手紙からもそれは伝わってきます↓

障害のこの祝福された日に、そして同時にその終わりとなる日に、わたしは君にこの手紙を書く。尿道や腹の病はやはり重くて、激しさの度を減じないが、それにもかかわらず、君とこれまで交わした会話の思い出で、霊魂の喜びに満ちている。

病気で苦しみながら死ぬ間際にも、友達に対してこのように思えるのは、エピクロスが素敵で幸福な人生を送ったことの証拠ではないでしょうか?

現代を生きる私たちもエピクロスの哲学を取り入れて、幸せに生きていきたいものです。