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はじめに
「なぜ人は生きているのだろう?」
「どうして私たちはここにいるんだろう?」
「生きる意味って何?」
こうした問いを持たないで生きられる人は幸せだ。
だけど中には私のようにこうした問いに真正面からぶつからないと生きていけない人もいる。
そんな人たちに向けてこの記事を書きたい。
私はこの問いに対して、自分なりに納得できる「答え」を見つけることができた。
どのようにしてその「答え」に辿り着いたかを紹介したい。
はじめて自分の存在意義について疑問を持った大学時代
私がはじめて自分の存在意義について疑問を持ったのは大学時代だった。
文系大学であったため自由時間が多かったこと、1人暮らしだったので1人で考える時間がたくさんあったことで 「なぜ私たちは今ここに存在しているんだろう?」 という問いが頭から離れなくなった。
もともとこのような問いは持っていたのだと思うが、小中高の学生時代は意外とやるべきことがたくさんあり、この問いに気づかずに過ごしてきたのだと思う。
時間があれば常にこの問いが頭の中に出てきて、考え込むうちに気づけば朝だったということもしばしばあった。
生きるのが辛いとか、そういう理由ではなく、単純な知的好奇心としてただただ気になって仕方なかっただけだ。
周りの友達や大人にこのような問いをぶつけたこともあったが、「お前大丈夫か? 何か悩んでいるのか?」と本気で心配されるだけだったので、次第に人にこの話題について尋ねることはしなくなった。
もちろん、ネットでも調べた。
「生きる意味とは」など色んなキーワードで調べたが、出てくるのは怪しげな宗教の有難い言葉だったり、根拠のないものばかりで、自分が納得できる答えを見つけることはできなかった。
それからはネットの中に答えを求めるのは止めて、徹底的に自分の頭で考える方法を取った。
ああでもない、こうでもないと出てきた考えをノートに書きなぐり、なぜそう思う? 根拠は? と自問自答を繰り返した。
その結果、一つの答えに辿り着いた。
今考えるとこの答えも曖昧で不完全なものだったが、その当時の自分をとりあえず納得させるのには役立った。
その答えとは、結論から言うと以下の一言。
「そもそも生きる目的なんてものはない。」
そんな身も蓋もない、なんの解決にもなっていないと言われそうだが、この答えは当時の自分には大きな意味を持っていた。
そもそも生きる意味なんてものはない
人間の存在理由について考えるとき、はじめに行き着くのは宇宙の始まりだ。
なぜ宇宙が生まれたのかがわかれば、人間の存在理由もわかるはずだ。
科学的には宇宙はビッグバンから始まったとされる。
では、ビッグバンの前は? その前があるとすれば、その前の前は?と疑問は続き、答えは提示されない。
科学には解決できない問題のようだ。
では宗教では? キリスト教では神が人間を創造したと言われているけれど、根拠がないし到底信じられない。
宗教も納得する答えを提示してくれない。
つまり、現在の科学や宗教では宇宙や人間が存在している理由を説明することは不可能な訳だ。
そんな存在理由が曖昧なものが作っているものって本当に存在していると言えるのか。
当時の私には人間が形成しているもの全て、モノや社会的システムも含め、全てが根拠のない意味のない代物のように感じられた。
全ての人が根本の問題を考えずに、表面上の世界だけを生きているような不信感をたえず感じていた。
何か絶対的なもの、自分が地に足をつけて生きていけるような疑いようのない理由や目的がほしいと心から思っていた。
そんな中、ふと以下のような考えが頭の中に降ってきた。
「目的や理由といった概念も人間が作ったものかもしれない。」
「存在が曖昧な人間が作ったものなら、目的や理由といった概念もあるとは限らないのでは。」
この考えが妙に自分の中で腑に落ちて、これまで存在理由とか散々考えてきたけど、そんなものはもともとなかったんだと一応は自分を納得させることができた。
「生きる目的なんてない。」 どうせ目的がないのであれば、この表面上の人間社会を思いっきり味わってやろうと、存在意義の問いを一度凍結して、私は就職して人間社会へ飛び込んでいった。
一人の哲学者と出会った社会人時代
就職してしばらくはがむしゃらに働いた。
毎日やるべきことがあったし、哲学的な疑問を忘れて過ごしていた。
そんなある日、何の気なしに読み始めた1冊の本に感銘を受けることになる。
「史上最強の哲学入門」著:飲茶
この本は歴代の哲学者の考えを著者がわかりやすく解説している本だ。
見た目はふざけているようだが、中身はしっかりしている。
まさに哲学の入門にふさわしい本だった。
いろんな過去の哲学者の思想を楽しみながら読んでいた私だったが、その中の一人の哲学者の考えに触れた時に衝撃が走った。
彼の名は「イマヌエル・カント」。
人間はどのように物事を見て、思考するのかを論理的に分析した哲学者だ。
つまり、人間はよく「考える」というが、何をどこまで考えることができて、どこまで理解することができるのかということを分析したと言っていい。
カントの出した人間の存在意義の回答
「人間は自分の存在意義(世界そのもの)を知ることはできない。」
ここでいう世界そのものというのは私たちが今見ている世界のことではない。
私たちが存在する前から存在している普遍的で絶対的な何かを「世界そのもの」と呼んでいる。
世界そのものを理解することは存在意義を理解することと直結する。
世界そのものと私たちの関係の具体例
一つわかりやすい具体例を紹介しよう。
DVDをDVDプレイヤーに入れることで動画が表示される。
ここで注目する点はDVD=動画ではないという点だ。
DVDは表面に凹凸があるただのディスクで、どんだけ目を凝らしても動画になることはない。DVDプレイヤーを通すことで動画になる。
同じことがこの世界にも言える。
世界そのもの=人間の見ている世界ではない。
世界そのものは人間というフィルターを通して初めて、人間が現在見ている世界として現れる。
具体的には「空間」と「時間」という物差しに従った世界として現れる。
これは人間が空間と時間を使ってしかこの世界を認識できないからである。
たとえば空間や時間といった概念を持たない宇宙人がいたとしたら、世界は全く別のものとして彼らの目に映るだろう。
つまり、同じ世界そのものを見ていても、変換器(上の例では人間や宇宙人)によって世界は姿を変えるということだ。
言い換えると、人間は空間と時間を用いて現れた世界しか認識できないため、世界そのものについて知ることはできない。
そしてここからが一番大事な点だが、「なぜ人間が存在しているのか?」といった問題は世界そのもの側の疑問であり、私たち人間がいくら頑張って考えても答えに辿り着くことができない問題であるということになる。
そして先ほどの 「人間は自分の存在意義(世界そのもの)を知ることはできない。」という回答が導き出される。
この回答は私にとって非常に納得できるものであった。
なぜなら大学時代に考えたことそのままだったからだ。
人間社会が嘘っぽく見えたのは今見えている世界だけではなく、世界そのものが存在すると無意識に感じていたからであったし、当時導き出した「そもそも生きる目的なんてものはない。」という回答もカントの導き出した回答と繋がっている。
同じように考えた人がいたというのが嬉しかったし、それをより論理的にわかりやすく説明されたことで、自分の中のモヤモヤが解消されるのを感じた。
現在〜仕事を辞め、世界へ〜
とりあえず、私が今持っている自分の存在意義に対しての回答は 「人間は自分の存在意義(世界そのもの)を知ることはできない。」 ということになる。
この回答だけ読むと、元も子もないと思われるかもしれないが、ここまでこの記事を読んでくれた方になら、この回答の持つ意味を分かってもらえると思う。
人間の頭で考えて辿り着ける最終ゴールはおそらくここだ。
人間が人間の物差しでしか、世界を見ることができない限り、ここから先に到達することはできない。
この回答のおかげで私は「答えがわからないことを考える必要はないんだ。」と精神的な平穏を手に入れることができた。
しかし、私の好奇心はまだまだ私を許してはくれなかった。
頭で考えて辿り着くことができないとしたら、方法はもう一つしかない。
「感じる」ことだ。
頭では理解できなくても、感じることで「世界そのもの」に触れることは可能だと思う。
事実、世界にはそのような人たちが大勢いる。
そんな人たちに会って「世界そのもの」を感じた経験を聞いて回りたい。
もちろん会って話を聞かせてもらっても、一度言葉になってしまった段階でそれは「人間世界のもの」になってしまうので、理解することは難しいだろう。
しかし糸口になることは間違いない
私の好奇心は私が「世界そのもの」を感じるまで許してくれないだろう。
だったらとことん突き進むしかない。
私は仕事を辞めて、世界に旅に出た。
今後、このブログでは世界の色んな人々の人生観を紹介していくつもりです。
他にも私が出会った面白い考え、哲学なども紹介していこうと考えています。
お付き合いいただければ幸いです。