ニーチェ哲学

【ニーチェの考え】性欲は悪いものなの? 童貞、処女でいる意味は? 

「性欲は悪いものなのだろうか?」

童貞、処女、、、純潔でいることはどのような意味があるのだろうか。ニーチェは代表作「ツァラトゥストラかく語りき」の中で以下のように語っている。

「ツァラトゥストラかく語りき」純潔について

私は森を愛する。都会は住みにくい。そこには淫乱な者が多すぎる。淫乱な女の夢のなかに落ちるよりは、殺人者の手のうちに落ちる方がましではないか。

ニーチェは淫乱な者が多すぎるので、都会は住みにくいと言う。

そしてあの男たちを見るがいい。彼らの目は語っている。この地上で女と寝ることよりもましなことを何も知らないと。彼らの魂の底には泥がたまっている。そして、ああ、何とその泥に精神があるとは。

完全に淫乱であることを軽蔑していることがわかる。性欲に溺れる者の精神を泥とまで表現している。

わたしが、君たちに官能を殺せと勧めるとでも。わたしが諸君に勧めるのは官能の無垢だ。

ここで一転、官能を殺す必要はないと。ただし、動物のように無垢な官能であればと。

わたしが君たちに純潔を守れと勧めるとでも。純潔はある者には徳だが、多くの者にはほとんど悪徳だ。彼らも自分を抑えはする。だが、彼らのなすこと一切から、肉欲の雌犬が妬ましげにのぞいている。

童貞、処女を勧める訳でもないと。それは多くの場合、欲を抑えている自分ってすごいだろという驕りになるし、いくら抑えていても、性欲自体を完全に消すことはできないから。

純潔を守るのがつらいなら、守ることをやめればよい。純潔が地獄への道、魂の泥と情欲への道になってしまわないように。

性欲を抑えるのが辛いなら抑えなくてもいいよ。性欲を抑えなければならないとなれば、この世は地獄のように思われるかもしれないし、世界が全て情欲のように見えてしまうものだから。

たしかに人間は何かを抑えようとすると、余計にそのものについて気になる。ダイエットのために食べないようにしよう、食べないようにしようと考える度に、食べることについて考えていることと一緒だ。

ほんとうに、底の底から純潔なひともいる。彼らは、君たちよりも寛大で、好んで大いに笑う。彼らは純潔そのものを笑い、そしてたずねる。

「純潔が何だというのか。純潔は、愚かなことではないか。この愚かしさの方が、われわれにやってきたのであって、こちらから求めたわけではない。」

なかには本当に純潔な人もいる。彼らは「童貞、処女であることは恥ずかしいことではないか。純潔を守ろうと思って守っているわけではないんだよ。」と言って笑う。

まとめ

性欲は抑えられるものではない。抑えよう抑えようと思うほど、気持ちは強くなるものだし、たとえそれで性欲を抑えたとしても、自分に対しての驕りも生まれ本当の徳とは言えない。

本当に純潔なものは、初めから純潔を守ろうなんて思わないものだ。ニーチェが良いと言っていた無垢な官能とはどんなものだろう?