「生きることは大変?」
「生きることは辛い?」
そんなことはないとニーチェは一刀両断する。
そのように考えてしまうのは生まれたときから、私たちに刻み込まれた価値観によるものだとニーチェは語る。
「ツァラトゥストラかく語りき」重さの霊について
ほとんどゆりかごの中にいるときから、早くもわれわれには重い言葉と価値が贈られる。「善」と「悪」、その贈り物の名だ。それを贈られてはじめて、われわれは生きることを許される。
ニーチェはわれわれは生まれてすぐに、「善」と「悪」という重い価値観を背負わされるという。
そしてわれわれは、持たされたものを忠実に、苦労して運んでいく。かたい肩に載せて、けわしい山々を越えて。汗をかくと、こう言われる。「そうだ、生は担うに重い!」
まさにわれわれが今生きている現代のことだろう。日本の社会で働いて、結婚して、家を建ててと普通に生きていくことはそうそう簡単なことではない。
そして「生きるって大変なことなんだ。」と自分を納得させるように言い聞かせて日々を過ごす。
だが、担うに重いのは人間自身だ。あまりに多くの他人のものをその肩に載せて運ぶから。ラクダのように膝を屈して、たくさんの荷を担わされている。
とりわけ、力づよく重荷に耐える、畏敬の念をもった人間ほどそうだ。彼はあまりにも多くの他人の言葉と価値を負わされている。そのとき、彼には生は砂漠のように思われてくる。
しかし、実際に大変なのは生きることではない。たくさんの他人の言葉や価値観を背負って、それに応えようと生きるとき、人生は大変なものになる。
特に、より多くの荷物を背負える忍耐力の強い人ほど、多くの価値観、期待を背負いこみ、砂漠の中を歩くように人生が辛いものに思えてくる。
人間を発見することはむずかしい。自分で自分を発見することがもっともむずかしい。精神が魂について嘘いつわりを言うことがよくあるから。
自分で自分が何を求めているのか、どんな価値観を持っているのか発見することが最も難しい。
他の人の価値観に影響されて、本当の心の声が聞こえにくくなっているから。
だがみずからを発見したものは、次のように言う。「これがわたしの善と悪だ」。こうして彼は「万人の善、万人の悪」などという土竜と小人を黙らせた。
自分にとっての「善、悪」という価値観を見つけた者は、「万人の善、万人の悪」という常識を振り掲げて大きな顔をする世間の人を黙らせる。
わたしは好まない。何もかもがそれぞれに良いと言う者を、さらにこの世界が最善だという者を。わたしはこういう者を、何でも満足屋と呼ぶ。
わたしは従順ではない、選り好みが強い舌と胃を尊ぶ。「このわたし」と「諾」と「否」を言うことを心得ている舌と胃を。
全てのものを受け入れて好きだというのではなく、「これは好き、これは嫌い」とはっきりと言える自分を持つことをニーチェは好むと続ける。
ひとに道を尋ねるとき、こころ楽しまなかった。それはわたしの趣味に反した。むしろ道じたいに尋ね、道じたいを進んで試みた。ただ歩いてみるということに、それが問い尋ねることであり、試みることであった。
人に何かを尋ねることも好きではなかった。むしろ実際に自分でやってみて自分が何を感じるかが重要で、それが何かを理解しようとするということだ。
「これは、わたしの道だ。君たちの道はどこか」。わたしはそう答えた、「道はどこか」と尋ねた者たちに。つまり定まった道というものはないのだ。
全ての人に共通する善、悪といった価値観はない。この人にとっては正しいが、あの人にとっては正しくないということが世の中にはたくさんある。
世間にとっての「善」、「悪」を探すより、自分にとっての「善」と「悪」を見つけることの方がはるかに大切だとニーチェは締めくくる。
まとめ
もし生きるのが辛い、大変だと感じる人がいるなら、ニーチェの声に耳を傾けてはどうだろうか。世間の常識が必ずしも正しいとは限らない。
自分の人生ではなく、他人の人生を生きていないだろうか。他人が求める人生を歩もうとしていないだろうか。
これまで生きてきた中で染み付いた常識に覆われて、自分の本当の心の声を聞くことは難しくなっている。
人生に行き詰まった時は、一度真剣に自分自身と向き合って、自分が本当は何を求めているのか、心の声に耳を傾けてはどうだろう。
そして、心の声が聞こえたら、その声に従って生きていい。世間の常識なんて、自分の価値観に比べたらどうでもいいものだから。