「結婚とはどのようなものか?」
一生一緒に添い遂げる相手を選ぶのは人生における一番重要なイベントとも言っていい。
子どもと結婚について、過去の偉人たちはどのように考えているのだろうか。
ニーチェは代表作「ツァラトゥストラかく語りき」にて次のように語っている。
「ツァラトゥストラかく語りき」子どもと結婚について
君は、子どもがほしいと思うことを許された人間か。
始めにニーチェはあなた自身が子どもを持つに相応しい人間であるか尋ねる。
君は勝利を収めたのか。みずからを克服したか。官能を統御できているのか。君の持つさまざまな徳を支配できているか。
子どもを持つに相応しい人間の条件として、勝利を収めたか(超人となったか)、みずからを克服したか、性欲を抑えられるか、徳を支配できるかをあげている。
それとも、その願望から声をあげているのは、獣であり、生理的欲求なのではないか。それとも孤独のつらさか。それとも自分に対する不満か。
獣的な生理的欲求、孤独の辛さ、自分に対する不満から結婚しようとはしてないか。
結婚とわたしが呼ぶのは、創造する二人が、自分たち二人を超えるひとりを創造しようとする意志だ。そういう意志を意欲する者として、二人がおたがいを畏敬し合うということ。これをわたしは結婚と呼ぶ。
結婚するには二人は十分に成熟している必要がある。自分たちの価値観を持って、物事を創造できるほどに。
そんな二人が尊敬し合いながら、自分たちを超える存在を作ろうとするのが結婚だとニーチェは言う。
買い手となれば、誰でも慎重なものだ。みな抜け目がない。だがこれ以上なく抜け目ない男も、妻をもとめるとなると、中も見ずに袋入りのまま買う。
これはよくありそうな話だ。もちろん買い物と結婚の相手選びは違うし、人間の中身を判断することは簡単ではない。
短い間、多くの愚かなことをする。これを君たちは恋愛と呼んでいる。そして君たちの結婚はこの、短い間の多くの愚かなことを終わらせる。かわって、それはただひとつの長きにわたる愚かさとなる。
ニーチェは成熟していない者同士の恋愛を愚かなこととしている。そして、結婚もただひとつの長く続く愚かなこととしている。
いつか君たちは自身を超えて愛さなくてはならない。だからまず愛することを学ぶがいい。諸君の愛のにがい杯を飲まなくてはならないのは、そのためなのだ。
最上の愛の杯のなかにも、苦味はある。だからこそ、愛は超人への憧れとなり、創造者たる君に渇きをあたえるではないか。
結婚とは自分自身を超えて、相手を愛することだ。だから愛することをじっくり学ぶ必要がある。愛とは甘いものばかりではなくて、苦い部分もある。
最上の愛の中にも苦味がある。その苦味から、愛は超人への憧れとなり、創造者をより意欲的にする。
まとめ
以上、ニーチェの結婚観でした。子どもを欲しがる前に自分自身が成熟した大人である必要があり、結婚はより高い存在の創造のためにするべきだという考えは理想的だと思うが、この考え方では私はずっと結婚できなさそうだ。実際、ニーチェは生涯独身であった。