もしこの世が同じことの繰り返しだとしたら。
何度も同じ人生を歩まなければならないとしたら。人生は無意味になってしまうのだろうか。
ニーチェは代表作「ツァラトゥストラかく語りき」にて永劫回帰という概念を紹介している。その時、人間はどのように考えるのか、どのような解決策が残っているのか。
「ツァラトゥストラかく語りき」幻影と謎について
この門には二つの面がある。二つの道がここで合流している。どちらの道も、誰一人踏破したものはいない。この長い道をもどれば、それは永遠につらなっている。またあちらの長い道を行けば、また別の永遠に通じている。
長く永遠に続く道の上に一つの門がある。その門でこれまで歩いて来た道とこれから進む道が合流している。
この二つの道は相容れない。たがいに角目っている。そしてここ、この門がある場所でこそ、この二つの道が出会っている。この門の名前は上に掲げられている。「瞬間」と。
この門の名前は瞬間。つまり、これまで歩いて来た道が「過去」であり、これから進む道が「未来」、そして今いるこの門が「瞬間」。
すべて歩くことができる者は、すでに一度はこの道を通ったことがあるのではないか。すべて起こりうることは、すでに一度は起こったことがあるのではないか。なされたことがあるのでは。この道を通り過ぎたことがあるのではないか。
そしてすべてのことは固く結び付けられているのだから、この瞬間はこれから来るべきすべてのことを引き連れているのではないか。ゆえに、この瞬間自体までも。
そしてすべては再来するのではないか。このわたしたちの前へと延びているもう一つの道、この長い恐ろしい道を歩まねばならないのでは。われわれは永遠に再来しなくてはならないのではないか。
ここで永劫回帰という概念が登場する。つまり、この世は同じことの繰り返しで、何度も同じ人生を繰り返しているだけなのではないか、ということだ。
ニーチェがこの永劫回帰を「恐ろしい」と表現しているのはどうしてだろうか。想像してみてほしい。
もし、この人生が一度きりではなくて永遠に繰り返されているとしたら。今生きているこの人生だけではなく、一度死んで、また違うものに生まれ変わって、死んで、生まれ変わって、、、。
それが全て決まっていて、もうすでに何度も繰り返しているとしたら。そして、それが細かい所まで、全く同じく再現されるとしたら。
今、あなたが永劫回帰って何だろうと考えているこの瞬間も、過去に何度も繰り返しているシーンの一つだとしたら。
これは非常に恐ろしいことではないか。人生は一度きりだと信じているから、私たちは全てのものに価値を見出すことができる。
たとえば、あるロールプレイングゲームを毎回同じルートで進めていかなければならないとしたら。出てくる敵も一緒、ゲームオーバーになる場所も一緒。こんなゲームは面白くないし、無意味だと感じるだろう。時間の無駄とも思える。
つまり、全てがただ繰り返しているだけなら、全てのものが、瞬間が、価値を失ってしまうのだ。
現代の社会に広がるニヒリズム
なぜニーチェはこのような概念を示したのだろう。それは永劫回帰が最恐の「虚無主義(ニヒリズム)」だからだ。
程度の違いこそあれ、現在はこのニヒリズムが進んでいる。
「人生なんてなんの意味もないでしょ。」
「そんなに一生懸命働いてどうするの? 意味ないのに。」
「どうせ死ぬんだから、何やっても無駄でしょ。」
こんな声は現代の社会ではよく耳にする。特に私たち若い世代は「さとり世代」などと言われることがあるが、まさにニヒリズムのことではないか。そしてかくいう私も「ほんとそうだよなー。何のために生きてるんだろうな。」と思う時が多々ある。
現代の人には当たり前で受け入れやすいように感じる考え方「ニヒリズム」。
特に悪いことはないように感じるが、ニーチェはこれを最も酷い病と表現する。
なぜなら、全てのことに意味を見いだせなくなった人は無気力にただただ毎日を消化していくだけで、喜びや悲しみも感じることができなくなっていくからだ。すべては意味がないのだから。
ニヒリズムを乗り越えるためには
そんなニヒリズムの最恐のボスが「永劫回帰」。その永劫回帰を乗り越えられるような手段をニーチェは次のように示す。
だがわたしが勇気と呼ぶ何ものかが、わたしの中にある。今までこれがわたしの無気力を打ち殺してくれた。
(中略)
勇気は最高の殺し屋である、攻撃する勇気は。死をも打ち殺す。勇気はこう語るからだ。「これが生だったのか。よし、もう一度」と。
これだ。この言葉だ。
「よし、もう一度!」
つまり、何度も繰り返される人生だとしたら、何度も繰り返したいと思える人生を送ればいい。
たくさんの辛いことがあっても、それを全てチャラにできるくらい、幸せで楽しい体験を作ればいい。そんなポジティブな姿勢こそが、ニヒリズムを打ち倒す力だ。ニーチェはここで一つ寓話を紹介する。
一人の若い羊飼いが七転八倒し、息を詰まらせ、痙攣し、顔をゆがめて苦しんでいるのをみた。その口からはずっしりを重たげに、黒い蛇が垂れていた。わたしは手でその蛇を掴んで引いた、また引いた。無駄だった。蛇を喉から引きずり出すことはできなかった。
羊飼いの喉を詰まらせている黒い蛇。これがニヒリズムの象徴だ。そしてそれは他人には取り除けないものだ。
知らぬ間に叫んでいた。「噛め。それを噛め! 頭を噛み切れ。噛め!」
(中略)
そのとき羊飼いは噛んだ、わたしの叫び通りに。力強く噛んだ。蛇の頭を遠くへ吐いた。そしてすくっと立ち上がった。
羊飼いは蛇という名のニヒリズムを力強く噛み切り、立ち上がった。
もはや羊飼いではなかった。もはや人間ではなかった。変容した者、光に照らされた者だった。供笑した。この地上でいまだかつてどんな人間も笑ったことがないほどに、高らかに笑った。
ニヒリズムを乗り越えた羊飼いはもはや、人間を超えた存在になり、高らかに笑うという風に寓話は締めくくられている。
まとめ
ニーチェの永劫回帰という概念を紹介した。この概念を信じるか信じないかは別としても、現代の時代に広がっているニヒリズムを考える上で、ニーチェの考え方は非常に参考になる。
どんなにこの世が無意味に思えても、たとえ本当に生きていることに意味がなかったとしても、「そんなの関係ない!、何度も繰り返したいと思える幸せを今、この瞬間、味わっているのだから!」と人生を強く肯定できたら、このニヒリズムに溢れた世界が全く違たもの見えるに違いない。