私たちはこの世界のどこかに運命の人がいて、その人と一生を添い遂げることが良い恋愛だと信じています。
果たして本当にそうなのでしょうか? 恋愛哲学といえば、プラトンと言われるほど有名な、古代ギリシア時代の哲学者プラトンに話を聞いてみましょう。
古代ギリシア時代の考えなんて古いと思われるかもしれませんが、全くそんなことはありません。
現代の恋愛においても十分通用する内容です。長く語り継がれるということは、それだけ恋愛の本質をついているといえるでしょう。
では早速、そんなプラトンが描く、 愛をテーマとした代表作「饗宴」の内容を見てみましょう。すぐに核となる結論を知りたい方は「美の奥義」へ。
「饗宴」あらすじ
「饗宴」はパイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストファネス、アガトン、ソクラテスの6人が順番にギリシア神話のエロス神(愛)を讃える演説を行っていくといった形式で話が進んでいきます。
ソクラテスの前の5人の演説は従来の伝統的な考えに沿ってエロス神を讃えるものです。この作品において、5人の演説はソクラテスの前座のような位置付けで、本書の主眼は最後のソクラテスの演説の中にあります。
プラトンはソクラテスに自身の恋愛論を説明させる形を取っています。
なぜ人は美しいものに惹かれるのか
はじめにソクラテスは実はエロスは神ではなくて神霊だと宣言します。ギリシア人にとって神霊とは神の使者のことであり、日本でいう精霊や守護霊にあたります。
なぜエロスは神ではないのかをソクラテスはエロスの出生から説明します。エロスは美の女神アフロディテの誕生祝いの際に、出席していたペニア(貧乏な女性)とポロス(工知の神)が交わってできた子です。
それゆえ、エロス(愛)は自身が貧乏でありながら、美を求め続ける「中間者」です。もし、エロスが生まれながらに美しかったら、美を求めることはしません。もうすでに美しいのですから。
しかし、エロスはそうではありません。そして、生まれる際に「美」という概念を知ってしまったため、嫌でもその「美」を求めてしまう宿命にあります。
つまり、エロス(愛)とは「美しいもの」に近づこう、手に入れようとすることです。私たちが、恋愛するときに美しいものに惹かれるのは、エロス(愛)がもともとこのような性質を持ったものだからだとソクラテスは説明します。
エロス(愛)は善きものが自分のものになることを、常に望む力だといえます。
永遠を求めるから恋愛する!?
人間はだれでも、肉体においても魂においても身ごもっている。
ソクラテスはこう語ります。もちろん女性が身ごもるのは子ども。男性の場合は精子が自らの肉体に宿した子どもにあたります。そして人間はその子どもを産出することを求めます。
では、一体なぜ産むことを求めるのでしょう。それは、生むこととは永遠の産出であり、死すべきものにとって不死なるものだからです。
このやり方で、すべての死すべきものは保全されています。つまり、常に全く同一であるということではなく(神の種族はそうなのですが)、古くなって去っていくものが、以前にあったそれと似た新たなものを後に残していくことによってなのです。
人間はいつかは死にます。死んでしまう運命にある存在だからこそ、「不死」を求めます。
では、人間にとって「不死」とは?
一つの答えが「産み続けること」です。私たちが恋愛をし、人を愛するのはそのためだったのです。
名誉心も「不死」を求めることに由来します。死んでもなお自分の名が語り継がれる。これはある意味では不死といえるでしょう。
永遠ではない存在が、不死にできるだけ近づこうとする行為が「出産」であり、エロス(愛)はそれをもたらす欲求とソクラテスは説きます。
美の奥義
ここがプラトンの恋愛哲学の核となる部分です。現代の我々も学ぶことが多いと思います。
美を追い求める者には4つのステップ(肉体→精神→知識→イデア)があるといいます。順番に説明します。
肉体の美
美を求める者がはじめに辿り着くのが「肉体の美」です。かっこいい人、可愛い人に出会い、その美しさに心を奪われるでしょう。
その人のことを一晩中考えたり、メールを送ったり、一緒に過ごす時間に幸せを感じたり、時には失恋して辛い思いをしたり。。。そのようにして美を経験していきます。
ここで一人の相手に留まってはいけません。その「美しさ」はその人の肉体だけに宿っているのではなく、他の美しい肉体を持つ人の中にも同じ「美しさ」があるものです。
数多くの美しい肉体を求め、愛するうちに、その「美」が同じ一つのものであることを悟っていきます。
「あの人以上に美しい人はこの世に存在しない」などと言っているうちはまだまだ「美」を理解できていません。
同じ一つの「美」が様々な人の肉体に宿ることを知り、それらを愛することが、本当の「美」へ辿り着く第一歩です。
精神の美
全ての肉体において「美」を観て取れるようになったら、それを超えるより高次な「美」を発見できるようになります。
それは魂に、つまり人格や性格における「美」です。たとえ見た目がブサイクでも、その心意気が美しかったり、何かを目指して一心不乱に行動するそのひたむきさが美しかったりと精神における美に目が届くようになります。
知識の美
精神における「美」のような、目に見えない「美」を認識できるようになったら、さらに高次な美、つまり知識の「美」に到達します。
これはもはや人間の中だけではなくて、社会や学問の 中にも美を見つけられる状態です。社会や学問の美って何?と思われるかもしれません。
例えば、ある民族の伝統文化に美を見出すことだったり、数学者はある数式に対して美を感じるなんてこともあると思います。
美そのもの
社会や知識のような抽象的なものの中にも美を発見できるようになった者には、最終ステップへの道が開かれます。
それは「美そのもの」を認識できるようになるレベルです。プラトンは「美そのもの」を以下のように表現します。
最初にそれは、常に、あるのです。生成せず、消滅もせず、増大せず、減少もしません。次に、ある観点では美しいが、別の観点では醜いとはならず、ある時には美しいが、別の時には美しくないとはならず、あるものとの関係では美しいが、別のものとの関係では醜いとはならず、ある所では美しいが、別の所では醜いとはならず、ある人々には美しいが、別の人々には醜いということもないのです。
「ない、ない、ない」と否定を続けてやっと見つけられる境地。普遍的な「美そのもの」に到達する瞬間です。
この「美そのもの」をプラトンは「美のイデア」と呼んでいます。
まとめ
以上プラトンの恋愛哲学でした。 現代の日本では「一人の運命の人と出会って、一生を添い遂げる恋愛」が理想と考えられています。
相手を愛することで、自分にないもの(美貌、財産、地位、名声、将来)を満たそうとする恋愛。運命の赤い糸が存在すると信じる恋愛。
プラトンはそんな恋愛観に一つの違った視点を与えてくれます。
- 美とは、ある一人の人だけに現れるものではないということ。
- ある一人の人の美に固執することは、実は本当の美を理解していないということ。
- 美を理解するためには、たくさんの美しい人に触れ、愛し求める経験が必要なこと。
現代を生きる私たちにとっては、一人の人だけに執着せず、たくさんの美しい人に触れる必要があるなんて、なんて不純なと思われるかもしれません。
しかし、真剣に美を求めるプラトンからしたら、その一人の美しさに固執し、恋愛を理解した気になっているあなたは愛(本当の美を求める心)に対して、不誠実だと言われるかもしれません。
運命の糸なんてなくても、美を理解する2人が「たまたま」出会い、お互いの美しさに惹かれ合う。
お互いにとって、その人が美しさを感じる唯一の人でなくても、お互いが美しさを求め一緒に過ごしていくうちに、共に愛を求め合うかけがえのない仲間になっていく。
そのような恋愛も私は素敵だと思います。