みなさんは「人生をどのように生きるか」について深く考えたことはありますか?
忙しい日々の生活の中でこの問いを意識する機会は少ないかもしれません。しかしこの問いは人生において、一番重要な問いです。
古代ギリシアの哲学者プラトンはこの問いに真正面から向き合っていました。
著書「ゴルギアス」の中で、「人生をどのように生きるべきか」という問いに対して、登場人物同士が熱い議論を繰り広げます。
古代ギリシア時代の書物ですが、現在の私たちが読んでも全く古さを感じません。
「人生をどのように生きるべきか」。この重要な問いについて、古代ギリシアの人々と一緒に考えてみましょう。
「ゴルギアス」あらすじ
哲学者ソクラテスが当代随一の弁論家ゴルギアスと対話するためにカリクレスの家を訪ねます。
そこでゴルギアス、ポロス(ゴルギアスの弟子)、カリクレス(気鋭の政治家)と議論を交わします。
テーマは(1)弁論術とは何か(対ゴルギアス)、(2)弁論術は善か悪か(対ポロス)、(3)人生をどのように生きるべきか(対カリクレス)に分かれています。
特にカリクレスとの対話は現代を生きる私たちにとって、重要な意味を持つであろう言葉が盛りだくさんで非常に面白い内容です。
弁論術とは
弁論術とは現在でいうところのプレゼンテーションやスピーチの技術にあたります。
つまり弁論術は「人びとを説得するための技術」と言えます。
弁論術の第一人者のゴルギアスは弁論術の持つ力を以下のように表現します。
わたしの言おうとしているのは,言論によって人びとを説得する能力があるということなのだ。
つまり,法廷では裁判官たちを,政務審議会ではその議員たちを,民会ではそこに出席する人たちを,またその他,およそ市民の集会であるかぎりの,どんな集会においてでも,人びとを説得する能力があるということなのだ。
しかも,君がその能力をそなえているなら,医者も君の奴隷となるだろうし,体育教師も君の奴隷となるだろう。
それからまた,あの実業家とやらにしても,じつは,他人のために金儲けをしていることが明らかになるだろう。
つまり,自分のためにではなく,弁論の能力があり,大衆を説得することのできる,君のために金儲けをしているのだということがね。
ゴルギアスは弁論術の力があれば、思い通りに人を操り、支配することができると言います。
実際に、言葉を使って相手の心理を自在に動かし、自分の思い通りに行動させることができるとしたら。
それは夢のような魔術のような力に思われるかもしれません。
しかし、我々の現代社会を見てみると、それはあながち夢物語ではないことがわかります。
情報が溢れる現代社会で、マスメディアやネットの力で人びとが動かされている事例は数え切れないほどあります。
カリクレス派?ソクラテス派?
欲望に従って生きる(カリクレス派)
カリクレスはそんな魔力のような力を持つ弁論術を学んで、社会的に成功し評価される人生を目標としていました。
そんなカリクレスは、弱肉強食の原理が正義であり、人間は欲望に忠実に生きるべきだと主張します。
正しく生きようとする者は,自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで,欲望はできるだけ大きくなるがままに放置しておくべきだ。
そして,できるだけ大きくなっているそれらの欲望に,勇気と思慮をもって,充分に奉仕できる者とならなければならない
そうして,欲望の求めるものがあれば,いつでも,何をもってでも,これの充足をはかるべきである,ということなのだ。
自分の欲望を抑えずに、勇気を持ってその欲望に応えられるようになるのが、正しく生きるということだと。
しかしながら,このようなことは,世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う。
だから,彼ら大衆は,それをひけ目に感じるがゆえに,そうした能力のある人たちを非難するのだが,そうすることで彼らは,自分たちの無能力を蔽い隠そうとするのである。
そして,放埓はまさに醜いことであると主張するのだが,ぼくが先ほどの話の中で言っておいたように,こうして彼らは,生まれつきすぐれた素質をもつ人たちを奴隷にしようとするわけなのだ。
そしてまた,自分たちは快楽に満足をあたえることができないものだから,それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども,それも要するに,自分たちに意気地がないからである。
そしてそのような生き方は誰にでもできる訳ではない。できないからこそ、欲望を満たすことができる能力のある人たちを非難し、欲望のままに生きることは醜い、節制や徳が正義だと褒め称えるとカリクレスは続けます。
われわれはその法律なるものによって,自分たちのなかの最も優れた者たちの最も力の強い者たちを,ちょうど獅子を飼いならすときのように,子供の時から手もとにひきとって,これを型通りの者につくり上げているのだ。
平等に持つべきであり,そしてそれこそが美しいこと,正しいことだというふうに語りきかせながら,呪文を唱えたり,魔法にかけたりして,彼らをすっかり奴隷にしてだね。
法律も自分で欲望を満たすことができない弱者が、能力の高いものを押さえつけるために作ったものだ。
「平等」が正しい、美しいということは弱者によって作り上げらえれた幻想だとします。
このような、弱肉強食を信じ、欲望に忠実になる生き方は現代の私たちにとって、少々過激に思われるかもしれません。
しかし、誰もが一度は、お金も名誉も好きな人も、欲しいものがすぐに手に入る生活に憧れたことがあるのではないでしょうか。
生きていく中で、欲望に従って生きることは醜いことですよと無意識に教えられ、実際に自分にそんな夢のような生活を送る能力がないと悟った時に、「欲望に忠実になる生き方」を否定するようになるのではないでしょうか。
哲学に従って生きる(ソクラテス派)
そんなカリクレスに対して、ソクラテスは「快い(欲望)ではなく善を目指すべきだ」と主張します。
ソクラテスがいう「善」とは「人間であれば誰でも例外なく善と認めるような善」です。私たち人間は何が良いことか、悪いことか、程度の違いこそあれ、ある程度同じような見解を持っています。
それは、人間が生を受ける前に完璧で理想的な「善そのもの(イデア)」を見たことがあるからだとソクラテスは考えます。
そしてその「完璧な善」を目指すことが人間の進むべき正しい道だと説きます。
快いこと(欲望)と善は違う
カリクレスは快楽を手に入れられるものは善だと言いましたが、ソクラテスはそれは違うと言います。
例えば、ある人の体が健康であれば、その人が食べたいだけ食べたり、飲みたいだけ飲むことは何の問題もない。
しかしその人が病気をしている時には、欲望に従って食べたり飲んだりすることは良いことではない場合もある。
それと同じで、魂が劣悪な状態にある時は、その魂がより優れた状態になるまで、欲望の満足を禁じるべきだ。欲望に従って生きないことがその魂にとって善といえる。
このように快いこと(欲望)が必ずしも善だとは限らないとソクラテスは主張します。
たとえ弁論術を使って、成功する人生を歩んだとしても、その成功が自分の魂にとって善か悪か判断できなければ、良い人生とは言えない。
そして善か悪か判断できるようになるには哲学的に生きる必要があるとソクラテスは語ります。
まとめ
以上、「人生とどのように生きるか」について2つの考えを紹介しました。
- 自分の欲しいものを手にいれることを目指す人生(欲望に従う人生)
- もう1つは何が魂にとっての善かを考え、それを追求する人生(哲学的な人生)
本書ではソクラテスがカリクレスを論破したことになっていますが、実際にはカリクレスの考えに共感する人も多いと思います。
ニーチェもその一人で、カリクレスの考えに強く共感し、自身の「超人哲学」を作り上げたと言われています。
あなたはどちらの生き方を選びますか?